Orgy way

アクセスカウンタ

zoom RSS マル。 〜2006年9月12日〜

<<   作成日時 : 2006/09/12 00:00   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 4

 9月なかばの火曜日、笹原完士と荻上千佳は揃って軽井沢駅に降り立った。朝というより昼に近い時間だが、乾いた高い空から真夏とは表情の違う爽やかな日差しが高原の町に降りそそいでいる。
「到着ー。うわ、なんかもう涼しいね、こっち」
「そうですね、東京ですら早々と秋って感じになってましたけど、格段に違いますね。寒いくらいです」
「さて、時間もあんまりないし、気合い入れてぶらぶらしましょうか!」
「笹原さん……それ言ってることおかしいですから」
 二人の記念日に、笹原の体が空いたのは偶然の産物だった。もともと時間も曜日もお構いなしの職場であったが、9月の初旬は年末進行のスケジュール調整を始める割と忙しい時期だ。
 今回の幸運は笹原の担当ではない連載作品のアニメ化が決まり、出版社がその雑誌を上げて作品プッシュに躍起になったことだった。当の看板作家とその担当編集者は年末年始の無休が確定した一方、他の作家陣はこの企画に置いてけぼりを食ってしまったのだ。
 もちろん制作側としては最前線で活躍できない悔しさもあるが、体が楽なのも事実だ。職場の先輩たちも(休日返上となった編集者までもが)新米の笹原に「休めるときには休んでおけ」というありがたいアドバイスを贈ってくれた。
 ちなみに同じ雑誌のライバル漫画に応援コメントのプレゼント用色紙を描かされる羽目となった彼の担当作家は、商業主義のひずみについて笹原にひとしきり愚痴ったあと、妻との正月旅行の計画に没頭することにしたようだ。さすがプロ、と彼は舌を巻いた。
「笹原さん、疲れてるんですからそんなに張り切らなくてもいいんですよ?」
「電車でいっぱい寝たから大丈夫。……ていうか荻上さんつまんなかったよね、ごめんね」
「いえっ……実は……私もほとんど寝てまして」
 千佳が笹原からの『無事帰れました。これで明日は大丈夫ですよ』というメールを受信したのは午前2時を回った頃だった。過去に何度も仕事が原因でデートを中止させられている身としてはそれまで寝る気にもなれず、一人ベッドで小さな液晶を見つめていたのだった。
「携帯のアラーム入れてなかったら、二人で長野まで行っちゃってたかも知んないす」
「うひゃあ、あぶねー」
****
 二人が付き合うきっかけとなった軽井沢に、1年目の記念日に行ってみたいと言ったのは千佳のほうだった。1年前の昨日、笹原は千佳に自分の胸のうちを明かし、そして翌日千佳は笹原の想いを受け入れたのだ。彼女自身の、笹原への想いとともに。
「思えばぎりぎりまで就職決まらなくてテンパってたんだよな、去年の今ごろ」
「恵子さんが合宿話はじめた時の笹原さん、すごい顔して睨んでましたよね」
「だって殺意めばえてたもん、あん時の俺」
 ぶらぶらと歩きながら話す。
 去年の夏はあわただしい日々が続いていた。千佳の夏コミ当選、彼女の部屋での販売会議、コミフェス本番ではスーとアンジェラの来訪、そして千佳の心の傷を知る友人との遭遇。
 笹原自身も就職が決まらず神経をささくれだたせる日々を送っていた。同期の高坂真琴が目を見張るような手腕で有名ソフトハウスに就職を決め、春日部咲は自ら経営者になろうと意気軒昂だった。
 彼はといえば、千佳への想いに自分で気付くも恋愛経験の不足から一歩も踏み出せない焦燥感もあいまって、彼には自分の踏みしめている場所がまったく見えなくなっていた。
「私も、そろそろ就職考えなきゃならないんですよねー」
「俺が動き出したのが3年の後期始まってからだったな」
 千佳が言う。3年生の夏休みともなれば、すでに就職活動を開始している同期も多くなっている。
「でも荻上さん、就職する方向も考えてたの?俺すっかりプロ目指すもんだと思ってたよ」
「いやあー。踏ん切りつかないですよ、やっぱり」
「夏休みのうちに持ち込み、やってみたら?受け付けてくれる出版社、探しておくから」
「はあ」
 子供の頃から、それこそ物心のつく頃からずっと漫画ばかり描いてきた千佳としても、この世界に飛び込んでみたいとは常々考えていた。しかし、自分にやりぬくことができるのかという疑問に、どうしても答えが出せない。
 自分の技量でプロの世界に割って入ってゆけるか。ヒットをひとつ生み出すまでに、体力や才能がもつのか。自分一人生きてゆくだけの金を稼げるか。全ての見とおしが立たない今、千佳は趣味を職業とする覚悟が持てないままでいた。
****
 9月に入ったため家族連れの観光客はほとんどいないが、それでも大学生グループや若い二人連れ、そして意外に多い壮年のカップルで避暑地は賑わっていた。
 去年は現視研のメンバーで歩いていた陽だまりの町を、二人で歩く。いつもならいらないちょっかいをかけてくるメンバーがいないと、妙に寂しい気もする。
「……そういえば朽木君、まだ就職決めてないんでしょ?」
「朽木先輩ですか?今もスーツで部室来て落ち込んでますよ、毎日」
「いろんなツテ頼って日本全国面接して歩いてるらしいじゃない。これで就職浪人なんてことになったらシャレにならないなー」
「私が心配してるのはそれより、先輩が卒業できるかどうかの方なんですけどね」
「あはは」
 雲ひとつない、青く丸い晴れた空の下。あちこちの店でお土産を買い、つまみ食いをし、ゆったりとしたテンポで見物して回る。表通りから一歩奥へ入って『ポモドーロ』で昼食にすることにした。
「どうですか荻上さん、あらためて来た軽井沢は?」
「去年は結局、ほとんど楽しんでませんからね。笹原さん、あの時はホントすいませんでした」
 ナイフとフォークを使いながら聞いてくる笹原に、パスタを巻き取る手を休めて答える。去年は旅行の日程のうち1日を千佳は二日酔い、笹原はその看病で費やしてしまっていた。
「謝らないでよ。あのおかげで、今日こうして荻上さんとここに来れたわけだし」
「去年の写真……朽木先輩が撮ったやつ、私ゆうべ引っ張り出して見てたんです」
「あはは、常にフレームが斜めのヤツね。出来上がった写真見て田中さんが激怒してたよねー」
「あのあと1ヶ月くらい田中さんわざわざ顔出しに来て、写真部の居残り特訓みたいになってましたもんね、朽木先輩。……最終日に町を歩いてるときも、笹原さんと私、同じ写真に写ってることがほとんどなかったんですよ」
 傍らのバッグを探り、写真を取り出す。
「あれ、写真持って来たの?」
「その、二人とも写ってる写真だけ。この2枚だけなんですけど」
 1枚は軽井沢を発つ時に駅員に撮って貰った集合写真。もう一枚は写真係を買って出た朽木学の撮影による微妙にブレた写真で、町を散策しているときのものだった。
「え、この2枚だけ?」
「集合写真だって笹原さんと私、こんなに離れて。こっちに至っては道の両サイドの店で別々に買い物してるってだけです」
「うわ、俺ちっさー。荻上さんよく気づいたね、コレ俺だって」
「この写真、実はすごいんですよ。カメラ持ってた朽木先輩以外、全員フレームに収まってるんです」
「マジで?……あ、これ恵子だ……するとこの横向いてるのが春日部さんで……うわ、こっちが斑目さん?てゆーか、『ウォーリーを探せ』?」
「あはは、私も思いました」
「はは……でも残念だな、俺写真見返してなかったけど、もっと写ってるって思ってた」
 写真を返しながら言う。
「今日はいっぱい撮ろうね。カメラも買ってきたし」
「でも、人にシャッターお願いするの、なんか恥ずかしいっすよ」
「大丈夫大丈夫。俺仕事始めてから、初対面の人に無茶なお願いするの得意になったから」
「相手は漫画家でも印刷所でもないんすからね、無茶なのはダメですよ」
 聖パウロ教会、犀星記念館、三笠ホテル。雑木林にも入り、初日に散策した木陰の道を歩く。バスを使って小瀬温泉で降りる。
「……入ってく?」
「ここ日帰り入浴不可みたいですよ。……残念ですが」
「え〜」
 その先の竜返しの滝では、千佳は大野加奈子からもらったというコスプレの写真を出して笹原に見せた。同じ構図で写真を撮りたいと言い始めた笹原をなだめすかし、ぎりぎり別アングルのツーショットを居合わせた観光客に撮ってもらった。
 まだ時間は早いが、頭上に見える午後の太陽は、その色合いをゆっくりと変えていく。バス停へ戻る道を歩きながら、笹原がふと時計を見た。
「そろそろ……行こうか?」
「そうですね」
 バスを途中下車し、二人は林の奥のほう、別荘の立ち並ぶ地区へと歩く。目的地はほどなく見えてきた。
「……あ、あそこ」
「うん、あのコテージだったよね。今日は誰か泊まってるみたいだけど……近くまで行ってみる?」
 別荘地のはずれ、急なキャンセルがあってあの日、幸運にも予約の取れた貸し別荘。半開きのカーテンが生活感を感じさせる。とはいえ、今の時間なら泊り客も散策に出ているだろう。
 建物へ続く板敷きの階段の端に立ち、記憶より若干古びた屋根を見上げてみる。
「1年かー」
「……なんか、全然違う建物に見えますよ私。そもそも去年はコテージなんか見てなかったかも」
「二日酔いで記憶が飛びましたかね?」
「その部分だけは思い出したくありません!」
****
 コテージを背にして、あらためて右へ。あの時は無我夢中で、どこをどうしてあの場所にたどり着いたのかまったく思いだせない。二人でぎこちない距離を保ち帰った時の記憶を手繰り寄せながら、ほどなく橋が見つかった。
 橋とは言っても、名もない小さなものだ。別荘地に流れる小さな渓流に、人や車の通行のための道を作っただけのものだった。
「ここ……だったね」
 二人は橋の上に進んだ。千佳は欄干に近づき、笹原はそれを追うように橋の中央に立つ。
「あらためて見ると……小さいですね。あの時はもう暗くなってて、もっと深くて大きい川だと思ってました」
「俺もー。この時間なら見とおしが明るいけど、暗くなるとすっかり森の中って感じだったよね」
 少しの間の沈黙。わざわざ1年かけてここに戻ってきて、互いが互いに言いたいことがあった。それをどう切り出せばいいのか、二人とも躊躇していたのだ。
「……あのさ」
 やがて、笹原が口を開いた。
「あの日に言ったこと、俺は今でも時々思い出すよ。『荻上さんを好きだから、守りたいからここにいるんだ』って」
「私、びっくりしました、あの時」
 千佳が応えて言う。
「びっくり?」
「笹原さんが、私に『好きだ』なんて言うんですから。びっくりしますよ。……それも、二日酔いでゲロゲロになってるところに」
「……はは、ごめん」
「さすがに混乱して逃げちゃいました。あの時も、転校したクラスメートのこと夢に見てたところだったんです」
「ああ、あの」
「笹原さん、私まだ説明していなかったと思うんですが」
 笹原の方を振り返る。
「……その友達、私のこと好きだって言ってくれた人なんです」
 彼の表情を探る。今の言葉に少し見開かれた瞳の奥を覗き込む。言わないままの方がよかったんだろうか……それとも……。
「私もその人のこと嫌ではなくて……まあ中学生ですからね、帰りがけに待ち合わせて神社で世間話したり。でもそれから何日もたたないうちに、私のイラストが彼の目に触れて」
 笹原は黙ったまま聞いている。その瞳はいつものように優しい光をたたえて、恋人を見つめている。
「私の夢に出てくるその友達は、私のことを責めないんです。夢ではいつも、私が一方的に彼のことを追い落とすんです」
 これまでに見た数百の悪夢が脳裏をよぎる。数百回、校舎の屋上から転落する彼と、それを面白半分の冷たい笑顔で見下ろす自分。背中に冷たいものが走った。
「告白される前から、その友達は私の中では『総受け』で……文芸部の友達みんなで小説書いて……私がイラストを……」
 連絡もなく彼が学校に来なくなった日。何日たっても登校して来ず、胸騒ぎが止まらなくなったとき。あの日教室に入った瞬間、自分を見つめた文芸部のみんなの視線。
「その人は……それっきり……私は……」
 このことを考え始めると、とたんに自分が中学生に戻ったように感じる。あれから数年の経験も全てリセットされ、何をどうしていいのかわからずただ泣いていた日々に。
「私……巻田くんになんにもしてあげれねくて……謝ることもできねくて……そンだのに、私だけまた男の人に『好きだ』なんて言われてぇ……」
 笹原が一歩、千佳の方へ踏み出した。反射的に一歩退く。ふるふると首を振る。
「だッだから……私ひとり暢気に色恋に浸るなんか許されねって思ってぇ」
「荻上さん」
 ふわ、と風がなびく。我に返ると、千佳は笹原の両腕に抱きしめられていた。
「荻上さん、俺さ、荻上さんのこと、守りたいんだ」
 千佳の耳元に、あたたかい吐息。
「1年前にも言ったけどね。荻上さんを傷つける全てのものから、俺はきみを守りたい。夏の暑さも冬の寒さからも。オタクの実態を知らない人たちの誤解からも。本当言えば、きみのことを責めるきみ自身からも」
千佳を抱く腕に力がこもる。
「1年間頑張ってきたけど、どうかな?俺、ちゃんとやれてる?」
「笹原さん……」
 彼が身を起こし、千佳の瞳を見つめる。先刻千佳が覗き込んだ時より、優しさの光は力を増したように見える。
「笹原さんは私なんかにはもったいないです」
「ありがたきお言葉」
 くすりと笑う。
「もったいないって思ったら、もっときっちり使い込んでくださいね、俺のこと」
「な……そっ、できませんよそんなこと!」
 笹原を押しのける。おどけながら大仰にのけぞる彼を睨みつけて、深呼吸し、笑顔で向き直る。
「すいません、パニクっちゃいました。もう大丈夫ですから、続けますね。笹原さんに聞いていて欲しいことがあるんです」
「うん」
「笹原さん、前に『逃げないことを選ぶのは、いつか自分の生き方に折り合いをつけるためだ』って言ってくれたこと、ありましたよね。私、あれでずいぶん楽になったんですよ」
 つきあい始めて間もない頃、自分を変える事ができずに落ち込む千佳に彼が言った言葉だった。
「それまでは『変わらなきゃいけない』のに『変われない』自分に思考停止しちゃってて、イラついて回りの人に当たって。まあ、そのあとも大して進歩してないですけど、それはそれなりに整理をつけるのも正しいんだって思えるようになりました」
 欄干に手をかけ、川に向かって伸びあがってみせる。笹原は一瞬びくりとするが、思い直したようで彼女を見守ってくれている。
「この下に、1年前の私がいるんです」
 あの夜のことがよみがえる。パニックに襲われてコテージを飛び出し、めちゃくちゃに走って息を切らし、立ち止まった場所。背中から聞こえてきた足音、眼鏡をかけていない視界にぼんやりとした輪郭しか見えない人影。
****
『あれ……え?笹原さん、ですか?』
 相手の正体が判った時に強まった鼓動は今思えば安堵によるものだったが、その場の主導権を握ったのは今の千佳ではなく、心を壁で防御し、暗い瞳をした当時の千佳だった。
 自嘲し、再浮上した罪の意識にさいなまれ、自身がどれほど罪科にまみれた存在であるかを涙とともに吐き散らす。笹原はそんな千佳を、今のような優しい表情で見守ってくれていた。彼女が最も忌み、そうしていてなお離れがたいやおい原稿に対してさえも。
『じゃあそれ、見てみよう』
 その言葉で、千佳が二人に別れた。
 優しい言葉を……たどたどしく、探り探りではあったがとてもあたたかい言葉をかけてくれた笹原に、千佳は同時に思ったのだ。『笹原さんなら受け止めてくれる』と。『笹原さんでもそんなことできない』と。
 笹原に心を委ねようと思った千佳は、その場で嗚咽をこらえながらそれでも笹原が傷つかない方策を探り、……笹原を拒絶した千佳は橋から身を投げたのだ。
「……私、笹原さんがショック受けるくらいなら私が自爆して現視研やめればいいって思ったんです。そのときに先走って飛び降りた『もう一人の私』が、ここにまだいるんです」
 千佳の視線の先には、あのときのジャージ姿の自分がいた。小川の真ん中に立って、黙ってこちらを見上げている。
 笹原も彼女の隣に来て、欄干から下を見下ろした。もちろん彼には、橋の下の幻など見えていないだろう。
「……浅いねー」
「……ええ。飛び降りなくてよかったですよ。これじゃ怪我もしないし、自爆にならないっすね、はは」
 川の中に立つ千佳は、問いかけるように首をかしげた。橋の上の千佳は、うん、とうなずいた。川の中の千佳は笑いこそしなかったが、なにか満足したようにうなずき返した。
****
「いま、その橋の下の荻上さんと、なんか会話してた?ひょっとして」
 笹原が千佳の顔を覗き込む。我が事ながらあまりの自己陶酔っぷりに赤くなって、千佳は笹原にもうなずいてみせた。
「えー、あの、はい。なんか、区切りをつけたほうがいいんじゃないかって思ったんです」
 区切り。ピリオド。句読点。……マル。
「中三のあのときから1年前の私までが、ひと区切りなんだって思ったんです。漫画なら第なん部かの『完』。文章なら、去年の昨日で『マル』がついたんだって、少し前に考え始めて。それで、今日はここに来たいって思ったんです……笹原さんと一緒に」
 下を見下ろすと、もう幻影の千佳はいなくなっていた。
「『荻上さん物語』ってワケですね、先生!自伝の構想まで練っておられたとは素晴らしい」
「茶化さないでくださいよ、もう!」
「あ……ごめんごめん、そんなつもりじゃ」
 茶化すつもりでないのは解っていたが、そう言って怒ってみせる。予想通りにうろたえてくれる笹原を見て、心が軽くなるのを感じる。
「去年、『飛び降りなかった方』の私とお付き合いしてくれて、ありがとうございます。これまでも何度も迷惑かけたのに、辛抱してくれてありがとうございます」
 隣で笹原は笑顔で見守ってくれている。
「こんな私ですけれど、これからもお付き合い、続けてくれますか?」
「はい。よろこんで」
 笹原は千佳の肩に手を回した。千佳は頭を、彼の胸にもたせかける。顔は平静を装っているのに、早鐘のように打つ彼の鼓動が耳に響いてきた。
「俺も、荻上さんにおんなじことお願いしようと思ってたんだよ。『マル』の話も、俺もちょっと考えてた」
 胸から耳を離して笹原の顔を見上げる。
「大学入って、『よしオタクやるぞ』って覚悟決めて、会長やってコミフェスもサークル参加して、就職も編集者目指そうって決心して。……現視研に……あのサークルに入ったことで、人生決めちゃったんだよね、俺」
 左手の親指と人差し指をあわせ、丸を形作る。片目をつぶり、できた穴から向こうの雑木林を見通す。その手を右へ動かし、こちらを見つめる千佳の目を、丸の中心に捉えた。
「斑目さんや、高坂君や、春日部さんたちでつないできたサークルが、俺にこんなにも多くのものをくれた。で、その中で一番大きいのは、荻上さんだった」
 左手を元へ戻し、千佳の肩に置いていた右手も外した。笹原の目は千佳の目を見つめたままだ。ほんの少しの距離をおいて、正面に向き直る。
「現視研に入ったから、荻上さんに出会えました。あそこで俺にたくさんフラグが立って、きみを好きになりました。サークルでいろいろ経験値を上げることができたから、きみに告白できました。まあ確かにいくつかイベントも発生したけど、俺は荻上さんの全部が好きです」
 しばしの間。彼の頬が上気しているのが判る。
「なんべん頑張っても強気になりきれないヌルオタですけど、これからも俺と一緒にいてくれますか?」
 この1年、彼は何回も千佳を好きだと言ってくれた。そのたびに、自分の幸せを噛みしめていた。
「(私も……)」
 私も、笹原さんに幸せを感じて欲しい。私なんかの言葉で、行動で、笹原さんは嬉しいと思ってくれるだろうか。私が今から言う言葉は、笹原さんの心に届くだろうか。
「はい、よろこんで。……あの、笹原さん」
「ん?」
 ひとこと目で彼の緊張がほぐれているのが見て取れた。なるべくなんでもないふうを装って、続ける。
「私も、笹原さんが、好きです」
****
「……え」
 こちらを見つめる目が点になる。己の耳を疑っているのがあからさまで、笑いをこらえるのに苦労する。
「い……いま……」
「はい?」
「……好きって、言ってくれた?」
 1年間、はぐらかし続けた言葉。ほんの2音節のこの単語を、『言わなくたってわかるでしょう?』と勿体をつけてきたこの呼びかけを、千佳は今日の日まで育ててきた。
 当初は、『そう言えば私からは言ったことないな』程度の引っかかりだった。それが3ヶ月になり半年になり、いつしか我慢比べのようになった。
 笹原が千佳に『好きだ』と言い、『俺のことはどう思ってるの?』と聞く。千佳が笹原に『どうして私なんか好きになったんですか?』と訊ね、笹原が答え、また『それで、荻上さんは……?』と問い返す。感情が高ぶって、自分から言ってしまいそうになったこともある。
 千佳はそれを口に出さない。ありったけのボディランゲージで、熱のこもった視線で、おぼつかない指で精一杯応えはするが、その言葉だけは自分の内にしまったままで今日まで来た。
 それだけ、千佳にとって大事な言葉だった。
 かつてのボーイフレンドにも言うことのなかった、生まれて初めて異性に告げる愛だった。
「あれ?聞こえなかったんですか?」
「いっいや、聞こえたんだけど……」
 からかい気味の千佳の言葉に、彼の顔が再び赤くなる。
「聞こえたんだけど、ね……っ」
 声が震え……、瞳の光がふいに揺らいだ。
「え……え、笹原さんっ?」
「え、あ、いや」
ぐすりと鼻を鳴らし、片手で目をこする。
「いやその……はっ、初めてだよね?言ってくれたの」
「……はい」
「えーと……嬉しくって、さ。はは、泣いてしまいました」
 恥ずかしそうに、幸せそうに、千佳を見つめる笑顔。慌てるあまり思わず駆け寄ってしまった両手のやり場に困り、こぶしを握る。
「もう……バカですね、大の男がこんなことで泣くなんて」
「スイマセン」
「そんなだからいつまでも強気攻めが身につかないんです」
「スイマセン」
「こんなときはむしろ、私の方が泣いちゃってそれを慰めるくらいじゃないとダメなんですよ」
「スイマセン」
「ほらまたぁ!」
「え?うわ」
 千佳は笹原の胴を抱き締めた。恐縮の極みの笹原が見下ろすと、千佳が……怒りながら、笑いながら、泣いていた。
「……スイマセン、ほんとに」
 ぎゅっと抱き返し、頭をなでる。
「笹原さん、私、笹原さんにお見せしたいものがあるんです。家に置いてあるんですけど」
 彼の胸に顔をうずめたまま、千佳は言った。
「あとで帰ったら、見ていただけますか?」
「……もちろん」
****
 その晩。二人が千佳の部屋に帰りついたのは7時前だった。笹原が用意していた切符はもっと遅い時刻のものだったが、二人で考えて時間を変更して帰ってきたのだ。
「おー。余裕持って帰るって贅沢でいいねー。なんかもうひと遊びできそうな感じで」
 玄関先に荷物を置き、千佳に続いて笹原が部屋へ上がる。
「なんか、ちょっともったいなかったですかね」
「そんなことないさ。あそこでしたかったことは大体してきたんだし」
「……大体?」
「ん……ほら、これからのことまでで1セットだったんでしょ?荻上さん」
「ええ、まあ確かに」
 笹原をいつものようにソファに座らせ、キッチンからグラスに麦茶を入れて持って行く。
「とりあえずは、お疲れ様」
「はい」
 笑みを交わし、グラスのふちを合わせる。秋の日差しで温まっていた部屋の空気が、エアコンに徐々に冷やされていく。
「……で」
 千佳は机の脇のシェルフに置いた封筒を、両手で持ち上げて笹原に見せる。
「これが、例のものなんですが」
「あっはい……って、これ、原稿?」
 1年前との相似形。だが、部屋に流れる雰囲気も、千佳の表情も以前とは違う。
「ええ、漫画……なんです。笹原さんに読んで欲しくて描いたんです」
 これまでにも千佳から、完成した漫画を見せられたことはある。そんなときには笹原はいつも、創作者に対する敬意と、恋人に対する愛情をもって作品を読んできた。だが、どうも今回は様子が違う。
「……カップリングは?久しぶりに『笹×斑』が描き溜まったのかな?」
「違いますよ!」
 前フリのつもりで言ってみたが、案の定そういうものではないらしい。少し機嫌を損ねてしまったようだ。
「あ、ごめんごめん、ちょっと前のこと思い出しちゃってさ……」
「あえて」
 笹原の言葉を遮り、千佳が言った。
「あえて言うなら……『笹×荻』です」
「……えっ」
「もういいですから、早く読んでください!……私、ここで待ってますから」
 耳まで赤くし、こちらと目も合わせられない様子の千佳を見て、これが特別な原稿だと解った。
「……うん、わかった。じゃ、早速読ませてもらうね」
「はい」
 笹原は封筒から紙束を取り出した。
****
 漫画は、少女を主人公としたファンタジーものの冒険譚だった。
 不用意な言動が元で魔女に親友を殺され、それが原因で他人とかかわり合うこともできなくなった少女が、あるとき立ち寄った宿屋で出会う人々によって次第に心を開いてゆくストーリー。
 超然とした皮肉屋だが状況分析力に優れた男性、少々乱暴だが面倒見のよい姐御肌の少女、おおらかな心と知略に富む策謀家の両面を持つ女性、その恋人で手先が器用な優しい目をした青年などが、彼女の凍った心を少しずつ溶かしてゆく。
 そして、少女のすぐそばでずっと彼女を守ってくれる少年。ある時は彼女の堅牢な盾となり、ある時は温かく彼女を包み、ある時は力強く彼女を導く指標となる。少女はやがて、少年に強く惹かれてゆく。
 後半、魔女とたびたび出会い対決を強いられるが、少年は主人公の少女を助けて戦ったりしない。ともに立ち向かい、守り、知恵を与えて少女に助力するが、彼が武器をとって魔女と対決することはなかった。その理由はクライマックスへの行程で明かされた。
 魔女の正体は少女自身であり、それを知った少年は魔女を倒すのではなく、魔女と少女の和解の道を探っていたのだ。
 最後の戦いのさなか、少年は言う。
『ぼくはきみの全部が好きだよ。きみの姿も心も、簡単に落ち込むところも。木や花に話しかける癖も、すぐ怒るくせにすぐ泣くところも、全部まとめてきみなんだから』
 完成度の高い下書き原稿の見開きページで、少年は言葉を少女と、魔女にも向けていた。戦いの構図は少年と少女が魔女に立ち向かうのではなく、いつの間にか少年が少女と魔女に対峙する形になっているのがこのページで明らかになる。
『だってわたしは……大切な友達を』
 彼女は言う。言葉を発したのが少女なのか魔女なのか、定かではない。
『失敗は戻らないよ。でも、だからきみが一生それに引きずられなきゃならないっていうのは間違ってる』
 それまでの優しい描写とは一線を画した、毅然とした表情の少年。
『きみは傷つかなきゃならないんじゃない。きみが傷つけた人たちのためにも、きみは、幸せにならなきゃならないんだ』
****
 笹原はいつしか、この物語に引き込まれていた。事前に言われなくても、初めの数ページでこれが千佳の物語だと気づいたろう。登場人物は姿も行動も現視研メンバーであると丸わかりだし、少年の顔は1年前に見た『千佳の描く笹原』そのままだった。
 いつもの絵より頭身を低く、描線を減らしたキャラクターは読み進むスピード感を考えたためだろうか。あるいは、彼女自身のトラウマという重いテーマで笹原までが気持ちを沈めさせないよう配慮したのかもしれない。
 ストーリーの密度と絵柄の受け入れやすさのバランスは、作品に高い完成度を与えていた。千佳がこれまでに描き上げた作品のどれよりも、笹原は夢中になっていた。
 最後の戦いは……過去の傷と、その傷に引きずられ続ける心と、それら全てを包もうとする意志とのせめぎあいは続く。
『わたしがどんなに謝っても、たとえわたしが自ら命を絶っても、きっとあの人は私を許さない』
 少女/魔女は言う。作画上でも二人はもう描き分けられていない。
『きみを許そうとしていないのはその友達じゃなくて、きみ自身だよ』
 少年は言い返す。
『きみがきみのことを許せないんなら、ぼくがきみを許してあげるよ。きみが友達にしたことを、ぼくにもしておくれ。ぼくはきみが大好きだよ。ぼくがきみの全てを支えてあげる。さあ!』
 少女/魔女が悲鳴を上げる。涙を流す。全身で拒絶し、震え、そしてそれでもその手には、かつて友人を死なせた魔法の光が輝き始める。
『いやよ……わたしは、あなたを……』
 少女/魔女は手のひらを自分に向けた。魔法の光を自分に放とうというのか。
 しかし少年は、次のコマでその手を、再び彼に向き直らせた。にっこりと少女に笑いかける。
『安心して。ぼくはきみが大好きだよ』
 見開きの白いページ……爆発。
 そして……。
 そして、笹原は原稿を読み終え、千佳のほうを振り向いた。
****
「あの、読み終わりました」
「……はい」
 じっと机の上を凝視していた千佳が、たっぷり数秒の間をおいて振り返った。まだ視線を、笹原に合わせられないようだ。
「それで……どうですか?」
「どう……って言われても……」
 どう言葉を紡いだものか、躊躇する。これがなになのか、そもそも説明されていない。「上手だ」と言って欲しくて描いたわけでは当然あるまい。
「……これは」
 目をそらしたままの千佳が口を開いた。さすがに説明不足だと気付いたのだろう。
「これは、私の心の中です。形になった私の心です」
「……うん」
「笹原さんのこと好きになって、笹原さんに好きって言われて、笹原さんとお付き合いできるようになって、私は一体なんなんだろうって思うようになりました。自分勝手な妄想で人ひとり不登校にして、自分はといえば自殺未遂なんかしてみて不幸背負ったみたいになって」
 笹原が身構えたのに気付いたようで、慌てて手を振る。
「……あ、大丈夫です、落ち着いてます落ち着いてます。それでも自分の趣味捨てられなくって、高校の時は完璧な隠れオタ演じて。地元から離れたら性格変えられるかなって思って東京の大学受けて……でも変われなくって」
 視線をひざに落としたまま、ひとつ息をつく。
「笹原さんは去年、私の全部を見ても好きだって言ってくれました。現視研のみんなは、私が問題児だって解っても引かないで相手してくれました。むしろ大野先輩なんか食いついてきて困ったくらいです」
「あはは。大野さんも日本に戻って来るまで、いろいろ思うところがあったみたいだからね」
「そんな……私が、たくさんお世話になった人たちを、私に出来ることで形にしたいって、思って」
 千佳の心が決まったようだ。視線をゆっくりと上げ、すこしためらった後、笹原の目を見つめた。
「そうしたら、こんな話の展開が浮かんだんです。さすがにリアルなキャラや実名で描くのはムリだったんで、ファンタジーものにしたら都合もいいかなって考えたら、あとはどんどんキャラクターが……私が、動いてくれました」
「うん。俺も、読んでて引き込まれた」
「『どうですか』っていうのは、おかしかったですね。質問するようなもんじゃないんですから。……笹原さんのおかげで、私はこの漫画を描くことができました。この、マルがつくところまでの物語を。この漫画は、私が、私のやり方で、笹原さんに伝えたかった、私の心です」
 一言ひとことを噛み締めながら言う。
 その様子に、笹原はたまらなくなる。どうしてこの人は、いつもこうなのだろう。もっと楽な生き方も、もっと簡単な表現方法も、彼女なら容易に編み出せるはずだ。それを、なぜこの人は。
「荻上さん」
 ソファから立ち上がり、呼びかけた。言いたいことを言いきった安堵と、自分の行動に対するいぶかしさが同居する表情。
 なぜこの人は、わざわざ回りくどい道を生きるのだろう。どうして手間のかかる方の選択肢を選ぶのだろう。……いや、答えは出てる。
 オタクだからだ。彼女も、俺も。
 以前、妹に説明したことがある。オタクは、なろうと思ってなるもんじゃない。気付いたら、なってしまっているものなのだと。もっとも妹には理解できなかったようだけど。
 俺たちはこういう生き方しかできない。こういう自己表現しかできない。逆に言えば、彼女のこの作品は、それだからこそ彼女の真実なのだ。彼女が……俺の大切な人が、彼女自身にできる最大の方法で、俺に心を告げてくれたのだ。
 俺はこの人に、なにかができるだろうか。俺の行動は、彼女の力になるだろうか。俺が今から伝えることは、彼女の心に届くだろうか。それともあえなく拒絶され、全てが壊れてしまうのだろうか。
「……笹原さん?」
 立ち上がったまま何も言わなかったため、千佳は不思議そうな顔をして笹原に呼びかけた。
 笹原は優しく微笑むと、かがみこんで千佳に目線を合わせた。
「荻上さん、俺がこれから言うこと、落ち着いて聞いて欲しい」
「……?はい」
 当惑気味の表情ででこちらを見返す。
「荻上さん。……本気でプロの漫画家、目指してみない?」
****
「え……」
 千佳の目が大きく見開かれ……これまでの会話を思い返しているのが判る。
「昼間の話。俺、会社の先輩に持ち込み先紹介してもらうよ。アシスタントやって現場経験積むのもいいって聞いてるし」
「え、で、でも……そうじゃなくて……」
 どこでこういう話のきっかけになったのか、戸惑いながら探っている。
「わ……私、そんな……そんなつもりでこの漫画……」
「解ってる。この漫画のことじゃないよ。荻上さん、落ち着いて、聞いて?」
 ひょっとしたら今の俺は、恋人のプライベートを食い物にして……恋人の心を描いた作品を切り売りして金儲けをたくらんでいるヤツに見えているかもしれない。混乱で泣きそうになっている彼女の頬を、両手で包み込む。そっとキスする。
「ん……っ」
 千佳がまばたきをし、その拍子に涙がこぼれる。笹原を拒む様子こそないが、動揺がピークに達しているのが判った。
「聞いて、荻上さん。俺は、やっぱりきみにプロの漫画家になって欲しい」
 唇を離し、言う。両手は顔を包んだまま額と額をくっつける。自分の考えていることが、頭蓋を通してそのまま千佳に伝わればいいと思った。
「これ、いままでは俺の単なる希望だった。きみがきみの人生をどんなふうに生きたって、俺はそれを支えていきたいし、それでいいと思ってた。プロはあくまで選択肢の一つで、たとえばOLやりながら趣味で描き続けたっていいって考えてた」
 千佳の目をしっかりと見つめる。彼女が目を逸らせないように。俺の心が、ちゃんと伝わるように。
「でも今、きみの漫画を読んで、違うって思った。俺は、荻上さんが漫画家になるのを見たい。今の俺みたいに、きみの漫画に勇気を分けてもらえる人を、たくさん作りたい」
****
「勇……気」
 ようやく一言、千佳が返した。
「うん。俺が今、きみの漫画から貰ったものだよ」
 伝われ。そう思いながら、にっこりと笑いかける。きみに勇気づけられた俺の心、きみに、伝われ。
「『100年に一度の天才だ』とか、そんなそれこそ漫画みたいなことを言うつもりはないし、俺にもそんなことはわからない。だけど、まだ仕事始めて半年の新米編集者でも、荻上さんに才能があることはわかるんだ」
 両手を頬から首へ伝わらせ、肩を支える。
「実を言うと、もっと前から感じてた。でも、それを言っちゃうと荻上さんの負担になるんじゃないかって思って、口に出さないでいた。……だけど」
 千佳の目の焦点が、徐々に戻ってくる。笹原の全身全霊の言葉を、心かき乱されながらもなんとか踏みとどまって聞いている。
「それは間違いだって、いま思ったんだ。俺は、荻上さんにプロになって欲しい。そのために俺ができることはたくさんあると思う」
 千佳の視線が再び笹原を捉える。笹原は両手を彼女の手に重ね、包み込んだ。
「これを言う覚悟を決められたのは、荻上さん、きみの漫画を読んだからだよ。あの漫画の中で……荻上さんの心の中で、俺はきみを見事に支えてみせたじゃない。現実の俺だって、それに負けてなんかいられないよ」
 重ねられ、裏返しにテーブルの上に置かれた原稿の束。笹原はその、最後のページをめくってみせる。少女/魔女と少年が全て巻き込まれた、真っ白な爆発の少しあとのシーン。
 宿屋のベッドで少女が目覚める。宿のみんながほっとした表情で彼女の回復を喜ぶ。ベッドの少女の横には、同じく今しがた目覚めた少年。
 そのさらに隣に、やはりたった今意識を取り戻した魔女の顔。少年を挟んで顔を見合わせる少女と魔女に、彼は心から嬉しそうに語りかけるのだ。
『二人とも無事でよかった。ぼくは、やっぱりきみが大好きなんだ。だってどっちのきみも、きみ自身なんだから』
「荻上さん、俺はきみが大好きだよ。だから、安心して、きみの望む道を進んで欲しいんだ。俺が荻上さんを支えるよ」
「笹……原さん……手、痛いです」
 いつの間にか握っていた手に、余計に力が入ってしまったようだ。
「あ……ご、ごめん」
 慌てて千佳の手を離す。
「ごめん。なんか俺……アツすぎた?ひょっとして」
 青春ドラマじゃあるまいし。ふいに途切れた緊張感の狭間で、笹原は今の自分を恥じた。だめだ、途中から独りよがりになってしまった。俺の言いたいことは伝わったと思うけど……これじゃ、ただの自分勝手ヤローだ。
「あの……」
「あ、荻上さん、ごめん。ちょっと慌て過ぎた、かも」
 千佳はこちらを見つめている。
「荻上……さん?」
「あの。ちょっとだけ、考える時間、もらってもいいですか?」
「あ……うん」
「笹原さんにそんなこと言ってもらって、嬉しかったです。私も、プロ目指すことは昔から考えてました」
 床を見つめ、ぽつりぽつりと話し出す。
「子供の頃から漫画描いてて、これをお仕事にできたらいいな、って、ずっと考えてました。特に、自分にはこれしかないって思うようになってからは、なおさら。だけど、……昼間もちょっと言いましたけど、いろいろ不安なことがあるんで、踏ん切りがつかないでいたんです」
 テーブルの上の、最後のページが開かれた原稿に目をやる。
「この漫画……『そんなつもりじゃない』って言いかけましたけど、ウソです。私、この原稿描いてて、笹原さんだけじゃなく、もっといろんな人に見てもらいたいって心の奥で感じたんです」
 笹原の顔を上目づかいでちらりと見る。心が定まらないようで、またすぐ目をそらす。
「いま笹原さんに言われて私、やっぱりプロになりたいって思いました。そのために笹原さんは支えてくれるって言ってくれましたけど、あの、……あの」
 視線をあちこちに泳がせながら、口を開いたり閉じたりする。言いたいことがあっても、うまく言葉にできないでいるのだろう。
「……あの。テンパったときの私、けっこう厄介ですよ?」
 さぐるように言葉にする。あ、そうか、と思い、笹原は答えた。強気、強気。
「うん、平気だよ」
「……落ち込んでる時なんか、モノに当たったりしますし」
「後片付けなら心配しないで」
「いたたまれなくなると、また飛び降りたくなるかも」
「荻上さんが窓にたどり着く前に、きみのことを捕まえるさ」
「あんまり先回りされたら、笹原さんにキライって言っちゃうかもしれません」
「う、ソレちょっとこたえるかも」
「すいません」
「でも大丈夫だよ。俺が、荻上さんのことを好きでいるから」
「んー、ありがとうございます。でも、……んー、でも……」
「うん?」
 まだしばらくきょろきょろとするが、やがて目を閉じ、ひとつ息をついた。
「ふう」
 目を上げ、笹原を見つめる。
「……荻上さん?」
 にこり。
 今までの混乱が消え去った、からりと晴れた秋空のような笑顔。
「笹原さん、私、言うことなくなっちゃいました」
 昼間、高原の町で二人見上げた、雲ひとつない丸い青空のような。
「私……持ち込み、やってみてもいいですか?あと、漫画賞の応募とか」
「うん」
 その空に引き込まれるように、笹原も笑った。
「うん。俺、応援するよ」
「はい、ありがとうございます。わたし、頑張りますね」
****
 前回のマルから1年。どうかな、俺は彼女の物語に、新しいひと区切りをつけてやれたろうか。
 正直、不安材料は多い。俺ごときの人間が、荻上さんを支えるなんて偉そうなことを言い放っていいものだろうか。彼女にもっとふさわしい人物が現れたら。男前で、才能があって、金持ちで、……いやいや、ナニ言ってんだ、俺は。
 今日のこの日を決めるのに、もう覚悟はし尽くした。前フリも下準備も重ねた。あとは俺の強気が勝負の分かれ目なのだ。
 さっき荻上さんの漫画にも、あれほど勇気をかき立てられた。あと、もう一歩。
 もう一歩だけ頑張れ、強気の俺。
「……荻上さん」
 ゆっくりかがんで、目線を彼女に合わせる。気づかれないようにズボンのポケットに手を入れる。両手を取って、至近距離で笑いかける。
「えっ?……え……あ、……」
 千佳は目を閉じ、笹原はその口に自分の唇を合わせた。
 いつもより少し長いキス。その間に指の位置を確認し、手の中に隠していたそれを……もうひとつの『マル』を。
 ……指輪を、一気に押し込んだ。
「んっ!え、なんですか?」
 千佳が身を引き、何が起きたのか自分の手を見つめる。もう少しキスしていたかったが、仕方がない。
「え、ええ?これ、どうしたんですか?笹原さん」
「1周年記念のプレゼント。荻上さん、1年間ありがとう。これからもよろしく」
「え、だってサイズとか……あ、恵子さん?先週急に部室来て……」
「うん、あいつ使って聞き出させた。指輪より高くついたけどね、あはは」
 自分の手を見つめて目を白黒させる千佳に、重ねて告げる。
「荻上さん、俺、荻上さんのことが好きだよ。1年間一緒に過ごしてみて、もっともっと好きになってる。もしきみがかまわないなら、俺はずっと君のそばにいたい。……どうかな、いいかい?」
 千佳の目は指輪の石に注がれている。誕生石のアクアマリン。淡いブルーの光が彼女に瞳に反射している。
「……え、それって……これって」
「うーん……どうなんでしょ」
 エンゲージリング。同時に頭の中に浮かんだ代名詞で、互いに照れてしまう。
「いやその……もっとちゃんとしたの、プレゼントするよ、いつか。だからそれは、それまでの整理券みたいなもんってことで」
「……です」
「え?」
「いらないです。いりません」
「え……」
「そのかわり……あの、お正月に成人式で帰ったとき、家族に笹原さんのこと話したって言いましたよね?」
「え?あ、うん」
「両親が今度の連休に、東京に出てくるんです。商工会議所の旅行会だとかで」
「はい?」
「そのときの自由時間に、ぜひ笹原さんと会いたいと……その……父が言ってるんですよね」
 ちら、と笹原を見上げる。
「一緒に食事でも、って」
 うひゃあ。
「ええ〜。この流れの直後にそんな話持ってきますか、荻上さん?」
 さっきまでとは違う汗が、額をつたう。
「……連絡もらったの、おとといだったんです。早く聞かなきゃって思ったんですけど、タイミングがつかめなくて。あ、でも弟も来ますよ、フォローは期待できますし」
「へえ、卒業式んとき以来……って待てよ、つまり家族全員と面談?」
「あ、そか……そう……なりますね」
「……は、はは」
 千佳が、こちらを見つめている。ちょっと頬を赤らめて、まあるい瞳で、期待を込めて。
「……ダメですか?」
 笹原はごくりと息を飲み、

 ……右手でマルを作ってみせた。



おわり。



【あとがきなど】
2006/09/09、SSスレに投稿。

笹荻成立1周年記念SS(笑)。というより、自分的には『自作伏線回収話』という位置づけでした。過去に書いた自作SSのネタをちょっとずつ織り込めたので、書いてる方は楽しくやれました。なお一部他人の作のものも混じったw

笹荻のSSを書きたいと思って、実際に書き始めて、しばらくした頃に「俺的げんしけん年表」を作り始めました。もともとは自分でSS作るときの指標になるものですが(作品リストもその一部です)、彼らの将来を考えると避けて通れないイベントがいくつもあります。そのうちのひとつが「荻上さんは漫画家になるのか」で、この話ではそれに方向性をつけようとしています。
僕の脳内では荻上さんは就職せずにプロ漫画家になります。ま、アシスタントで食ってくのかいきなりデビューするのかはまだ妄想中ですが。そのきっかけとしては、やはり笹原に背中を押してもらうことが必要ではないかと。
オタ趣味に限らず、なにかに打ち込んでいる人は必ず「これを職業にできるか」と自問すると思います。高校球児がプロ目指すかどうか悩むとかって話ね。そこで出てくる不安は作中に書いたようなものであって、大きいのは「ソレで食ってくことができるのか」なのだろうと思います。まあ経済的支援の話まで描写してしまうと生々し過ぎるんでひたすら『支える』という言葉で逃げましたが、荻上さんのように精神的に不安定なクリエイターには「背中を預けられる人」の存在が必要かと思いました。

あと、勝手な謝辞など。こんなとこに書いても気づかれないでしょうが。
荻ラヴの絵板で連載(笑)やってたできさんという方がいます。この方の作風が好きで相当追っかけてたんですが、僕がこの作品を書いてる時期にちょうど1シリーズ佳境に入ってまして、荻上さんの性格がものの見事に引っ張られましたw 本作のオギーはすでに木尾センセのではなく、できさん描くところのオギーだと思われます。
できさんの別の作品で「笹原の追いコンにオギーの弟が登場する」という話があったので、その引力に敬意を表して最後のシーンで織り込ませていただきました。勝手なことしてすんません。


さて、こんどは気楽な軽い話でも考えてみますかね。

テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
あのその。今読み終えて、まさしくオギーの心のように翻弄されております。
ひとこと、ありがとうございます。
わたくし、synthさんにマルをいただきました。
での字
2006/09/09 21:42
ぎゃあw
こちらこそ、としか言いようがありません。カネこそ取ってませんが、やはり物書きとして誰かに影響を与える、与えられるというのは何物にも代えがたい喜びです。10年近く封印していた創作活動ですが、やはり再開してよかった。コレがあるからやめられません。
またいずこかで魂を触れ合わせられたらと思います。
ありがとうございました。
synth
2006/09/09 22:36
うわー色んなものに引っ張られまくりです(苦笑)。
8巻にまだ引っ張られてたんですが、この「マル。」すごいですね。
危うく笹荻SSはもう書かなくて良いかと思うぐらい(書きますけど)。
でも本当にそれぐらい、区切りになり得る作品と思いました。
絵板や絵チャットの影響は僕も受けますね〜。
しかし絵茶に入り浸るとSS書く時間が無くなって…あわわ。

僕は…まずは軽くて短いものから。それって僕にはいつもの通りです。
みゃ@崇民
2006/09/11 03:43
8巻の引力はちょっとシャレになりませんね。創作意欲を奮い立たせるばかりかそれを殺ぐ要素まであるw
SSスレにぐだぐだ書きましたが、僕の真の目的はより多くのげんしけんSSを読むことなのですバァーン。
みゃ@さんの作品のほのぼのっぷりは僕の嗜好性ど真ん中なのでいつも楽しみにしてるのですよん。ワタクシの野望のためにもぜひ新作をお願いいたしますw あっでも負担に思わないでくださいませ。
楽しくゆるゆるとまいりましょう。
synth
2006/09/11 18:08

コメントする help

ニックネーム
本 文
マル。 〜2006年9月12日〜 Orgy way/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる